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宗教

しばしば揶揄されるように、「科学宗教」という言葉がある。
宗教とは、生活のデザイン・モデルとして人の生活に組み込まれたものだと僕は認識しているのだけれども、日本人の意識的に、科学の発達やカルトの凶行が伝えられたり、オカルティックなものの消費(ゲームやこっくりさん)などをしたりて、共産主義(共産主義の根本を支えるとされた人間の善性とかいう人間を超えた力ととらえるならば)やキリスト教、仏教までが軽んじられているような印象を受ける。
ここで言いたいのは、科学的なものがどこまで発達したとしても、人間が何千年もの間に悩みぬいてきた歴史は軽んじられるべきではないということ。
つまり宗教とは、数多の悩みの天才たちが悩みぬいてきた歴史であり、たかだか凡夫たる自分達の悩み(マイノリティをいかに救っていくか、努力や才能といった普遍的なもの)ごときの解答のモデルはすでに誰かが言及しているであろうということである。

たとえば、科学宗教の中の最大の問題として「理不尽といかに戦うか」という難題は個々人の解答に依っていくことになる。
いやそもそも理不尽というものは存在しないのが科学というものの道理であり、理不尽を分析していくと、実にそれは理に適っているものだ。(たとえば地震というものは人は天災として理不尽だと言うが、地震というのは地下のプレートに一定以上の力が溜まると一気に解放されるのだから、その力を分析するなんらかの手だてがあれば地震の予知はできるであろう)
よって理不尽と感じるのは、人間の感情でしかない。
そういった理不尽になんらかのブラックボックスなシステムがあると仮定され、その意匠として神というのを添えられたのが原始の宗教ではなかろうか。
理不尽であっても、神のなさることならば納得しなければならない、といった(まぁこれも割と偏見に満ち満ちた穿った見方だと自覚しているが、)人の思考をシンプルに短絡的に満足させるシステムが神と人の付き合いはじめであっただろう。

つまり宗教というもののメリットを追及していくならば、そういった悩みに対しての解答、好く人生を生き抜くためのモデルとしてデザインされていると僕は考えている。
むしろ、今の日本の時代にこそ宗教というものは必要であろう。
みななにがしかに悩んでいるが、その実、考えていることはみなほぼ同じなのだから、先人たちの智慧を拝見するのも悪くない。


ついでにwikipedia先生によると、一般に、『人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念で』あるそうだが、日本の努力と根性といった精神論、綺麗なももの、純粋なもの、ベストや最善でなければ価値がない、科学は万能であるはずであるが、その実システムを把握しないのだから、人間を超えた何かすごい力と認識されているあたり、割と人間の力を超えていると思う。


一遍とかキリスト教とかが面白いとかのたまっておきながら逃げている阿呆の戯言



うひゃ
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  1. 2013/06/21(金) 14:15:51|
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